人との距離のとりかたが50歳をすぎても下手です。
表面上、社交的で常識的な距離感を保てています。しかし、実際に私自身が望んでいる距離感はそれとは異なります。
さびしがり屋なのに一人になりたがる。
社交的ではあるものの心を開くのに時間がかかる。
わたしにはそういう傾向があるので、普通にしているとどんどん孤独になってしまいます。
空気が読めないとか距離を詰めすぎるとは真逆です。空気を読みすぎ、気をまわしすぎ、距離が詰められない。相手からの働きかけを待ってしまうタイプのようです。そうこうしているうち、仲のいい友達になれる可能性があったかもしれないのに、その芽を枯らしてしまう。これを自覚するのに数十年かかってしまった。
薄い関心しか持たれないかなしみ
わたしのこういった傾向は、子どものころの体験が原因かもしれません。
大切な人からの拒絶や、無関心、適当にあしらわれることが続くと、コミュニケーションへの働きかけそのものができなくなります。子どもにとって大切な人とは、すなわち家族や好きな先生などです。
わたしには年の近い兄がいます。子どもの頃の兄は愛されキャラで、家族をはじめ周囲の大人からの愛情と関心を一身に集めていました。兄は活発すぎる子どもで、農薬を飲み、スクーターにはねられ、蟻をおいかけて授業をひっかきまわし、とにかく注目される多動の人でした。
それにひきかえわたしは手のかからない妹でした。子どものころ好きだったのは読書や音楽、絵を描くことです。言い換えると一人で完結する遊びですね。もちろん、兄や幼馴染たちとよく走り回って遊びましたが、注目の的になることはありませんでした。中学までのわたしは常に「〇〇の妹」でしたし、当時の教師に会っても「お兄ちゃんの印象が強すぎてあなたのことは正直憶えていない」といわれます。
モブでいたくない
幼少期のこういう体験は、強烈なキャラクターのきょうだいを持つ人あるあるだと思います。
わたし自身がほんとうに大人しくてシャイな性質なら支障はなかったのかもしれません。が、あいにく、わたしは兄とは別な意味で性格が強めなので、場(ば)の主人公になれないのが不満でした。また、兄に向けられるそれに比べあきらかに薄い関心しか持たれないのも、悲しかったのです。熱量高く向き合ってもらえないのはわたしに価値がないからだと感じられもするし、自尊心も痛みます。
子どものころにこういう扱いをうけていると、「ほかに主人公がいるのにモブが注目を求めて騒ぐなんて惨めだわ」と、自意識をこじらせてしまいます。構って欲しいのに他人から拒絶されたらショックだし、関心を持たれないのも切ない。そんな思いをするぐらいならひとりのほうがいい。だから相手からの働きかけを待ってしまうわけです。
他人の要求を優先してしまう
子ども時代に望むような注目を得られなかったせいか、自分に価値を持たせるため他人の望みや要求を優先しがちです。頼まれごとや引き受け手のない役目や仕事を、つい引き受けてしまいます。仕事の場でも「役に立つこと」に汲々(きゅうきゅう)としてきたなぁと、今回の休職で実感しました。
これがほんとうによくないのです。人の役に立ちたい=いいことと思われがちですが、そもそもやりたいわけでもなければ望んでいる役割でもないからです。一時的に他人様から感謝されたり評価されても、それすらわたしが本心から望んでいるものではないので、いつまでも心は満たされない。
43歳で単身渡米して衝撃だったのが、「あなたはどうしたいの?」と訊かれてなにもでてこなかったことでした。わたしはなにを望んでいるのか、どうしたいのか。それがまったくなくて空っぽだと気がついた時には呆然としました。それまでのわたしは生活のすべての軸を元・夫に置いていたからでした。食事ひとつとっても自分がなにを食べたいのかがわからない。情けないことに、そんな有様でした。
滅私奉公の生き方は、たいていの人には毒です。
自己有用感は脳の報酬系を刺激する麻薬みたいなものです。喜んで他人に尽くしているように見えても、その裏で自らの人生はどんどん蝕まれてしまいます。それに、どちらか片方が我慢して尽くすだけの関係性では、対等で尊重し合えて喜びや苦しみを分かちあうことはできません。
原因探しはほどほどに
「思ったように親から愛されなかった。兄ばかり可愛がっていた親が悪い」「夫のせいでわたしはこんなになってしまった。元の夫が悪い」とは思っていません。ふりかえるとそういうことがあった、こんなふうに感じていたというだけです。今更だれかを責めたり事実をほじくりかえしても幸せではないなぁと思うんですよね。
兄からしたら「お兄ちゃんなんだからと我慢を強いられた。妹は甘やかされていて不公平な扱いだった」となるでしょうし、元・夫からみたら「なんだかんだいってお前はいつも自分の意見を押し通す。話し合いなんか無駄」だったわけですし。
ものごとには当事者の数だけの真実があるものです。
要は、どうしたら望むような距離感で人と接することができるのか、人とよい関係を築けるのかを知りたい。これにつきます。
今から先、よりよく生きるためにはどうしよう?そんなことを考える5月になりそうです。