豚モモ肉の塊を叉焼にすべく凧糸で縛りあげているとき、なんていい肉なんだろうとしみじみ嬉しくなってしまった。
処理も綺麗にしてもらっていて、新鮮だから血管もそのままわかる。
素晴らしい肉質。健康な血管。そこに残っている血すら尊く感じる。
お肉は、屠畜を経て精肉にする、すなわち食品として正確かつ的確に処理する技術が味を左右するんです。飼料や肥育ももちろんですが、最後のプロセスもとてもとても大事です。
そうはいってもスーパーやお肉屋さんの店先に綺麗にパックに入れられて並んでいる精肉。肉といえばそれしか触れたことがないとプロセスなどといわれてもピンとこないですよね。
昔は商店街にお肉屋さんが1軒は必ずあって、最後の加工を店内でやっていたお肉屋さんも多かったから、買い物にゆくとその手元をカウンター越しにじっと拝見するのも楽しかったものです。自分で処理しているからこそ、お肉屋さんも「今日はいい肩ロースが入ったよ」とか「今あるスネ肉はあんまりよくないから、来週おいで」とか言ってくれたものです。
日本では屠畜業は被差別部落の問題ともからむので、タブー視されてきた歴史もあります。
誰かが育て、誰かが屠り、誰かが処理して出荷してくれて精肉として売ってくれるからこそ、おいしいお肉が食べられる。それをなかったふりをするのは失礼だなとよく思います。命への感謝はもちろんのこと、このお肉に関わってくれたすべての人に感謝しつつ、おいしく調理して食べる。
どんなに気持ちに余裕がなくてもこれだけは忘れたくありません。人としての最低限の礼儀のようにも思います。
内田旬子さんの『世界屠畜紀行』(解放出版社 2007)を初めて読んだ時にもその思いを強くしました。
生き物を食べることと生きることとは不可分なのに、屠る(ほふる)という工程を忌みタブー視する文化がある。殺生を禁じる仏教の影響だとか色々言いますが、命を奪う行為に対する忌避感情はどこから始まるのでしょう。
蚊や白蟻を退治することと犬を殴り殺すことはちがうとわたしは感じてしまいますが、犬を食べる文化の人からしたら「は?なにいってるの?」だと思います。
ところが、そう反応する人であっても、さあこの犬を自らの手で屠って食事にしなさいと言われたらひるむことでしょう。
わたしも豚肉大好きですが、じゃあこの豚を屠ってねとナイフを渡されたら1週間は悶々とする自信があります。
そんなの都合のいいダブルスタンダードじゃねえか、ケッ!と、若い頃のわたしは蔑んでいましたが、人の心の綾というのはそこまで単純ではないものだと最近では感じます。
生きているものの命を自分の手で断つことへの恐怖、それを食べることで生かされている業深さを忌む気持ちが、ダブルスタンダードの根底にあるのではないかと思うのです。原初的な恐怖感かもしれません。それにいいも悪いもないのではないでしょうか。
ただ、「知らない」ことに対する恐怖と嫌悪を特定の職業への蔑視に直結させるのだけはやめたいですね。
それは単なる差別ですから。