気がついたら12月も半ばです。毎年、月日の経つスピードに驚いていますが、今年は特にはやく感じます。
12月は一年でいちばん好きな月です。いよいよ冬本番になり、東京では快晴の日が増えて空気はからりと乾燥し、年越しにむけて掃除やおせち作りのスケジュールを考えたりクリスマスプレゼントを考えたりするのも、嬉しく気忙しい。
そんなときに友人が東京の東部から多摩北部まで遊びにきてくれました。
前日からわたしは嬉しくてそわそわしっぱなしでした。朝から野菜やコーヒーの買い出しにゆき、彼女の到着に合わせてごはんが炊き上がるように算段し、氷を当てながらハンバーグのタネを捏ねたり。副菜の味のバランスを考えながら作るのも楽しく、もちろん食べる時はもっと楽しい。
たわいもない話から真剣な話まで安心してなんでも腹蔵なく話せるから、リラックスしたいい時間になりました。
おいしい〜!といいながら食べてくれる人とともに囲む食卓は、やはりいいものです。
人が喜んでくれる様子をみるのが嬉しいし、心の栄養になります。なんだかんだいってわたしの原点はそこにあります。
意欲の底つき感とvacancy
2023年5月以降、憑きものが落ちたようにやる気、意欲が心から消えてしまいました。
これまで様々な分野に興味を持っては深掘りしたり学んだり、自分のビジネスに活かしたりしてきたのが、ぱたっと止まりました。
好奇心と行動力とでぐいぐい進む。興味は尽きることなく、知識を吸収し実践することに貪欲というこれまでのパターンが、まるで消火されたかのようになくなりました。自分でもあきれるほど意欲が湧いてこなくなり、心が以前のようには動かなくなってしまったのです。
このままではいけないと焦ったり物足りなく感じたりもするのですが、いかんせんなににも食指が動かない。比喩ではなくほんとうに「枯渇した」というのがぴったりです。
こうなった原因には心当たりがありました。
承認欲求のオバケだった
これまで理想としてきたことや価値観に意義を感じなくなったことが、原因のひとつです。
以前のわたしは自分の優秀さを他人に認めさせたいという承認欲求がとにかく強く、それを燃料にして走っていました。
わたしだってできる、わたしのほうができる、わたしがわたしが!という気持ちと、目標を設定したらそれにむけて最短距離を考え出す特性とが組み合わさって、成果を上げてきたんだろうと思います。
承認欲求は燃料としては火力は強くても副産物も多いのです。
他人からの評価に一喜一憂し、それだけが自分の価値だと思い込み、少しのミスや失敗も認めがたくなります。得手不得手があってあたりまえなのに完璧に優秀であることを目指すがために、自分にも他人にも厳しくなる。常に比較と競争に追い立てられているから、マウントポジションをとらないと心が休まらない。マウントポジションをとったとしても、世界中が自分の競争相手なのでキリがない。承認欲求を燃料にしていいことなんかありません。
わたしの場合は、知的好奇心とそこそこの知性があったがために、知識や、小器用にできることがどんどん増える。増えるほどに人様から感心してもらえたり重宝してもらえたりする。喜ばれたり褒められたりすれば嬉しいものです。あたしってデキる女なんだ、そこにだけ価値があるのだと思いこむ。
そして、いつのまにか、他人より優れていることが目標にすり替わる。
本来なら自分の満足のためだった興味や達成感と、他人からの評価とをよりあわせ、自分を縛り上げる縄をせっせと自ら綯って(なって)いたのです。
心がよろこぶことなんて言われても
50年間そうやって生きてきたのが「もうこの燃料やめます」といってすぐに代替燃料が見つかるかというと、そういうわけにはゆかない。心が喜ぶことをみつけなさい?え?なんですかそれ???と、最初は呆然となっていました。
そこで友人からのアドバイスにしたがって、好き・快・嬉しいと感じるモノやコトを最優先で選ぶように心掛けることを夏からコツコツ続けてきて、自分の本来の心の志向がぼんやり浮かび上がってきました。
ほどよく生活感のある空間が好きだったり、動線の邪魔をしない配置が大事だったり
自然を感じさせてくれる広々とした公園や、植物の美しさや季節の移ろいを五感で味わうことが心のバランスのためにも大切だったり
地元で採れる野菜が好きで作り手のストーリーに興味津々だったり、地域の中での人の繋がりを大事にしたいと願っていたりと、自分の心の志向がみえてきました。もちろん、読むこと・書くこと・作ることも自分の根幹にあります。
うちにごはんを食べにきてくれる人たちからよく「丁寧に暮らしているねぇ」といわれます。そこにもヒントがあって、日々の暮らしを快適で安心できて潤いが感じられるものにすることが好きなのです。
場をつくりたい
これをひとりで味わってニヤニヤしているのでもいいのですが、どうもそれではわたしは飽き足りない。
誰かを喜ばせたい、もてなしたい。子どもの頃からずっとそんな気持ちがあります。
母方の実家は毎日のように誰かしら近所の人(他人だったり親戚筋だったり)が居間にいるような家でした。
慶弔の折々にはたくさんの人が客間に集まり、女の孫であるわたしは給仕や洗い物などに使われたものです。フェミニストとしては「なんで女だからって寒い台所でこき使われなくてはならないんだ」という怒りもムカムカと湧いてくるのですが、その一方で、その場で求められていることを目端をきかして察して立ち働くことは嫌いではありませんでした。
人が話に興じたりおいしそうにご馳走を食べていたりする様を裏からみるのも好きでした。
今では代もかわり家に親類縁者をたくさん招いて饗応するような場はなくなりましたが、誰かとごはんを食べたい・お茶を飲みたい・話したいと思った時には、うちに気軽にやってきて欲しいという気持ちが常にあります。
なんだか落ち着くと感じてもらえるような場をつくりたいのです。
そんな話を、先日やってきてくれた友人にハンバーグをつつきながら話すうちに、やりたいことの輪郭がうかびあがってきました。(つづく)