年配となるも老害となる勿れ

今年で53歳になります。最近、老いをよく感じます。
これまで老いることを他人事としてとらえていましたが、待ったなしで我が身のこととしてひきうけるよりありません。

どこにもピントが合わなくなる目、水を弾かなくなる肌、うねりだす髪の毛、重力に負けるフェイスライン…こんな身体的な老いには、50歳を超えたころから「お?おおお?!これが…老化(唖然)」とショックとともに毎日直面しています。
そう。やはりショックなのです。自分が生き物として終わりに近づいているなんて。

20年近く前のことですが、当時お世話になっていた特許事務所の所長が還暦を迎えた時、所員でお祝いをしました。

その時、所長は「めでたいにはめでたいんやろうけどな、さみしいもんやで」というのです。なんでですのと訊くと「手の中の飴ちゃんがな、こう、一個ずつ無くなってゆくような、なんともゆえんさみしい感じがするんや」と冗談めかしながら話してくれました。
その当時30代だったわたしは、へぇ、そんなもんかなぁ。先生はまだ若々しいし健康そうだし自分の事務所も持ってはるし、なにがさみしいんやろ。と、あまりピンときていませんでした。

だけど今ならその時の所長の気持ちがよくわかります。
Mセンセ、まだあると思っていた手の中の飴ちゃんが毎年ひとつずつなくなるのは、確かに寂寞とした気持ちになりますなぁ。

50歳をすぎたから見えるもの

歳をとってみて初めて気がつくこと、わかることは確かにあります。若い頃とは考え方やものの捉え方も変わりました。

例えば、若い頃からわたしは誰に対しても態度が同じであることを自分の美徳のように思っていました。
しかし、中年期以降、そんなことを美徳だなんて思っていたらとんでもない。社会的地位が高い相手に媚びへつらわないとか、弱い立場の人に対し偉そうにふるまわないのは人として当然です。それを美徳といえるのは若い人だけです。

相手によって適切な態度をとることが大人の役目です。管理職や経営者、政治や行政に携わる人などには厳しい態度で臨み、社会的弱者には柔和な態度で接する。相手の持っている権力性を考慮して平等であろうとすれば、自ずからそうなります。

老害になりえる自覚を持つ

年齢とともに様々な経験を重ねると、経験に基づき推測する力や対処法を考える能力が豊富になる反面、パターンでものごとを見てしまうようになります。「ああ、それね。はいはい。わかったわかった」と勝手に思い込んで相手の話を最後まできちんと聴かなくなったり、誤った解釈で先走ることもあります。
そそっかしい、短気という個人の資質とばかりもいえません。わたしのやりがちな勘違いは加齢の影響かもしれない。そんなふうに自覚して自ら戒めるよう心がけないと、「話を曲解する・話をきかない困った人」になってしまいます。

おそろしいことに、歳をとったことでネガティブ発言も増えるようです。
人がなにかにチャレンジしようとしている時や改善策を提案してきたときに、難癖をつけたがる年長者っていますよね。「そんなことしてもどうせ〜〜でしょ」「今更そんなことしてもねぇ」とよく言ってしまっていませんか。
「それもいいけれど、こうしたらもっとよくなると思う」という建設的な意見があるのならまだしも、ただ変わりたくないだけ、慣れ親しんだルーチンを変えたくないだけという場合もあります。変化を変化であるというだけで避けたくなっているとしたら、深刻な老化だと思うのですよね。思考が硬直しているわけですから。

そして、求められてもいないのにアドバイスしたがったり、「〇〇をするならかくあるべし!」という自分の金科玉条を感情とともに押し付けたがったりしたら、それはもう立派な老害です。

自分の溜飲を下げるため、自分の恨みつらみを晴らすため、自分の正しさを証明したいがために、その言動をしていないか?と、常に自ら問うようにしたいものです。

そんなことを考えつつ、誕生日を迎えました。
おめでとうのメッセージをわざわざ送ってくださったみなさま、ありがとうございます。
わたしが老害になりかけていたら「なにやってんだよ!」とビシバシと叱っていただきたいなと思っております。