魔女になりたい(2/2)

承認欲求オバケだったわたしが、それを手放したはいいものの燃え尽きたみたいになり、半年以上かけてようやく「やりたいこと」が少し見えてきた話を前回書きました。

やりたいことの輪郭が浮かびがってきたとはいうものの、現時点ではかなりふわっとしてとりとめがありません。
だから、いま、心にあることを次々と書いてみます。

誰かのちょっとした不便を解消する手伝いがしたい

例えば、入園までにいくつかのバッグを親が作ってこいと幼稚園から言われたがミシンすらない!とか、敬語を学びなおしたいけどどうしたら?とか、料理が作れない・食材の選び方がわからない、怪我でゴミ出しができない等々、生きていればいろんなことが出来します。
家族や親きょうだい、友達などが頼れる人はいいんです。インターネットで調べたり、SNS上でアドバイスを求めたりで解決できることも確かにあります。しかし、そういうリソースがない人たちもいれば、ネット上の情報の質を見極めて自力で解決するのがそもそも難しいことや、物理での解決が欲しいときもあります。
そんなときに「とりあえずあの人に相談してみよう」と思ってもらいたいなと…書いててなんだかずいぶん思い上がっているような感じがしますが、大袈裟なことではないんですよ。ちょっとお願い、手伝ってと気軽に言える場所をつくりたいのです。

適度な距離を保ったゆるやかなつながり

つまりは世話焼きおばさんになりたいのですが、昭和のおせっかいなおばさんはバウンダリーを超えてずけずけと突き進んでくる印象がありますよね。わたしが目指したいのは適度な距離を保ったゆるやかなつながりで、おせっかいというよりは【おばあちゃんの知恵袋・令和版】です。

イメージとしては『千と千尋の神かくし』の銭婆(ゼニーバ)がわたしの理想です。

スタジオジブリが提供している静止画をお借りしました
https://www.ghibli.jp/works/chihiro/

双子の妹;湯婆婆(ゆばーば)は、人や妖怪を働かせて湯屋を繁盛させているやり手のビジネスパーソンです。部屋のインテリアも派手で多い。それに対して姉の銭婆(ぜにーば)は質素な田舎暮らしで、なんでも自分の手で創ります。強力な魔法使いなのに「魔法でつくったのでは意味がない」と言い、手間と時間をかけてものを作ることを大事にしています。糸を紡ぎ、糸を撚り(より)、千尋にお守りを作ってやったり、手作りの焼き菓子で千尋たちをもてなしたりします。
魔法が使えるけれど、自分が手を動かしてつくりだすことや手をかけてモノを大切にすることに重きを置いている。そして、そういう暮らしから得た知恵やスキル、哲学を大切にし、自分を頼ってきた者は受け入れ、しかし甘やかさずにあるべきところへ送り出す。
こんな人にわたしもなりたいと思って「魔女になりたい」と言い出したわけです。

寛容なコミュニティがあれば

私自身は離婚をきっかけとして一人暮らしを始めましたが、この年齢になると、配偶者や両親が亡くなって一人暮らしになる知人もちらほらでてきました。この先、おそらく女性の単身世帯はもっと増えると思います。ご近所さんや親戚と密なおつきあいをしていない世代の単身世帯が増えることは、社会から孤立しやすい人が増えることを意味します。

実際にやってみてわかりましたが、「ひとりでも安心して満たされて暮らす」というのは思った以上に難しい。自由であること、自立していることは常に孤独と不便と背中合わせです。怪我や病気で容易に社会的弱者になりかねませんし、身元引受人や保証人が必要な場面では都度頭を悩ませます。

だからといって常に孤軍奮闘しなくてもいいはずです。

さみしい、しんどいと思った時や困ったことがあった時にゆく場所があったら、
ともに考えたり話をきいたり、公助など繋いだりして背負った荷物を軽くしてくれる場所があったら、
単身者ももっと安心して暮らせます。そういう場をつくれたら楽しいんじゃない?と考えています。(が、なにから手をつけたらいいんだかよくわからない)

自己責任論は害

人を頼ったりなにかをお願いしたりすることを、「迷惑なのでは?」と捉えて困っていても抱え込む人が増えたように感じます。

「他人に迷惑をかけてはいけない」という考え方は、たいへん危険です。
特にこの10数年、日本中にはびこっている自己責任論とあわせ、これらは生きづらさを倍増させる呪いです。

通勤中に人身事故が発生したときに「ああ、なんて迷惑なことをしてくれるんだ!」と、もし苛立ってしまうのなら、そうとう「迷惑をかけたらいけない病」に侵されています。
それは不愉快な満員電車での通勤時間が延びて苦痛を感じるとか、自分が想定していたタイムスケジュールで動けないということに起因する単なる怒りであって、実際の「迷惑」ではないですよね。仮に、人身事故による電車の遅延で親の死に目に遭えないとか、大事な商談がご破産になったとかだったとしても、巡り合わせや運だとも言えます。
「迷惑だ!」とことさらに他人を責めたくなるのは、やり場のない怒りをぶつけているだけではないでしょうか。

迷惑をかけるような奴はクズだとみなす考え方は、ブーメランとなって自分に帰ってきます。「迷惑な奴」と思われたくないと毎日他人に与える心証を気にしてばかりいたら苦しい。苦しいのを我慢して頑張り続けているから、少しの刺激で「迷惑だ」と怒り出したくなってしまう。

ブーメランは自己責任論も同じです。人身事故が発生する可能性を考慮して早い時間に家をでなかったあなたの責任ですよね?と切り返されたら終わりです。

そんな不寛容な社会では、楽しくのびのび生きられないし、ちょっとの失敗で激しく挫折感や敗北感を味わうことになります。これでは生きづらいですよね。

もっと気楽にゆるりといきたい

ヒトはそもそも迷惑な存在です。環境を破壊し、他の種の生物を何百と絶滅させ、家畜や野生動物までまきこんで互いに殺し合い、何千万年かけても消えない毒を撒き散らしている。これを迷惑といわずなんといいましょう。
迷惑はかけたりかけられたりしてなんぼ、お互い様だと思って生きるのがちょうどいいはずです。

もっと気楽にゆるりと生きる余裕が欲しい。息抜きしたり、互いにちょっとした相談をしたり、ふらっとやってきてごはんを食べたりできたら、眉間の皺も少しは浅くなるんじゃないかな。

とりとめもないことをそのまま書いてしまいましたが、同じような志を持っている方がいらしたら嬉しいです。

わたしが!わたしが!!という自己主張で外に向けて展開し、知識と経験を詰め込んで我がものとするステージが終わり、人生の次のステージにやってきたのでしょう。
今までのような生き方はたぶんもうできません。寂しくもあるけれど、新たなステージでどう生きるかを考えるのも悪くないものです。