自他共に認める出不精だ。それでも稀に思い立ってばびゅんと出かけることがある。
昨日はりょうもう5号に乗って一路赤城へと日帰り旅に出かけてきた。りょうもうは「両毛」と書く。上毛野国(かみつけのくに)と下毛野国(しもつけのくに)をあわせて「両毛」と称する。まさかに20代までこれを「もろげ」と読んでいたとは口が裂けても言えない。
今回の旅は猫友さん…というのも憚られる、猫飼いの大先輩のご尊顔を拝するのが目的だ。ひょんなきっかけでふたたび交流の糸が繋がった、気とこだわりが強く過集中の猫キチガイ同志(ご無礼をお許しください)は、タイミングさえ合えば話がするすると早い。「遊びにおいで」のおさそいにふたつへんじで乗っかって、片道3時間半の旅をしてきた。
特急列車での旅は移動そのものが興味深い。車窓から見えるものすべてが興味の対象になってしまう。
「草加!?なんて遠くまで来たんだ」「牛舎がみえるー!」「桐生…ちゃん…(ゲームの「龍が如く」に頭が毒されている)とひとり脳内会話を繰り広げつつ、無事に目的地に到着した。
高津戸峡
赤城駅まで迎えに来ていただき、まずは「駅からすぐの秘境」に案内していただく。
はね(「撥」の手偏ではなく魚偏の字)滝橋とその周辺の高津戸峡だ。ダムがあり、いきなりのものすごい高低差にギョッとなる。
ゴツゴツとした岩場が凄まじい。
高津戸峡(たかつどきょう)は、群馬県みどり市大間々町高津戸にある渓谷である。
足尾山地から流れ出る渡良瀬川の中流に位置する。群馬県北西部の吾妻渓谷とともに「関東の耶馬渓」と称される景勝地である。
伊勢が淵、はね滝、ポットホール、また近年になって名付けられたゴリラ岩、スケルトン岩などの奇勝が見られる。橋上から絶景を見おろす高津戸橋、高津戸峡のシンボルといえるはねたき橋などの橋が架かる。高津戸橋からはねたき橋にかけて遊歩道が整備されており、東毛地域を代表する新緑・紅葉の名所となっている。
Wikipediaより
遊歩道があるので歩いてみましょうとなったものの、ものすごい急勾配の階段だった。
しかも階段は途中でなくなり、あとは岩場をヒイヒイ言いながら這うように歩く。膝蓋骨不安定症のわたしは膝がゆるいので足元が不安定だ。いきおい、中腰になる。山岳民族である日本人が膝から下が短いのも納得だ。こういう斜面の連続する地形では、地面に近いところに関節があったほうが安定する。
紅葉が美しく、急峻な岩場と滔々と流れる水と相まって素晴らしい景色だった。
この動画にも写っているが、古い水門が崖の中腹にある。かつては水位がもっと高かったのだろう。
梯子なみの急な階段をふたたびのぼる。息が切れるのを途中で写真を撮ってなだめつつ、文字通り這う這うの体(ほうほうのてい)で橋まで戻った。いやはや。これは歳をとったらやれないことですなぁなんて思っていたら、わたしよりはるかに年上であろう人たちが次々やってきては階段を降りたり岩場を歩いたり(そして転んだり)している。お元気でなによりです。
一旦、猫友Kさんのご自宅にお邪魔して一息ついてから洋食屋さんでランチをいただいた。
群馬県産若鶏のソテー(オニオンソース)がおいしかった。最初に出てくるサラダから美味しくて写真を撮り忘れておしゃべりに興じてしまった。
口福の時間
またご自宅に戻り、デザートに黒胡麻と黒豆の羊羹をいただく。これがありえないほどに美味しい。つめたく冷やして薄くスライスしてくださったものを、一口ずつ噛み締めると口の中に贅沢な滋味が広がる。口福の一品だった。
食感が蒸し羊羹のようでもあったので「どんな形で売られているんですか?」とうかがったら、いわゆる長い羊羹の形だった。ご厚意で残りを持たせていただき、これを打っている今もニヤニヤがとまらないでいる。熱い狭山茶と合わせてもおいしいだろうな。ふふふ
お茶をはさんで色々とお話をするうちに、かつてわたしが猫の口腔環境のことなど、Kさんに相談にのっていただいたことを思い出した。当時は猫の完全室内飼いや健康管理のための情報は、個人のホームページやブログで集めるしかなかった。獣医師が今のようにSNSでも発信するような風潮はなかった。わたしはFIVキャリアの猫を初めての猫として迎え、その猫の健康管理のことでしばしば不安になったり悩んだりしていた。そんなときにKさんの膨大な情報量のウェブサイトにたどり着いたのだ。
当時、Kさんのもとには猫関係のご相談が山のように押し寄せてきてたそうだ。1日に100通以上のメール対応をし、夜中や早朝にも電話対応をし…と、そんな状態だったことを知ってギョッとした。Kさんはフルタイムで働き、義両親の介護や40頭近い猫たちの世話もしていた。どこからそんな気力と体力がでてきていたのか。
「人はどうでもいいのよ。猫を人質に取られているから、猫のために応じていたの」とさらりと言うが、並大抵のことではない。わたしなら数人からの相談対応でもパンクしてしまうだろう。いや、それ以前に、怒って怒鳴りつけて相談がやってこないだろうな。
他人の時間
人間に「平等に」与えられているのは時間だけだ。こればかりは貧富の差なく、誰しも1日24時間しか持っていない。
限られた持ち時間をいかにやりくりして自分や大切な存在のために使えるか。これが人生の質を左右すると五十を越えて思うようになった。しかし、恥ずかしいことに若い頃にはコトの重大さに無自覚だった。
思い詰めて他人の生活にまで思い至らない状態になった人が、いかにKさんの大事な暮らしの時間を奪ってきたのか。わたしもそのひとりだったのではないか。Kさんはたいせつな時間を割いて猫飼い初心者の愚問にも対応してくれていたのだ。
まるで電灯が点いたみたいにパッと意識の暗がりが照らされて、この事実に気がついた。
「うわぁどうしよう」としか言えなかった。
Kさんにかぎらず、友人、知人はわたしと過ごすために貴重な時間を割いてくれているのだと思い至った時、ともに過ごすことの重みとありがたさにやっと気がついた。他人さまの時間を徒(いたずら)に奪うことほど罪深いこともない。
15時半にKさんのおうちを辞して、ふたたびりょうもう号に乗って東京へ帰る。
こうやって移動する時間も、わたしには大事な時間だ。スマホをいじって終わらせるのはもったいないと思っていたから、今回の旅のお供は文庫本だ。作家や編集者が自分の人生の時間を刻んで世に送り出した本。それを読むとは贅沢な営みだと、昨日はひとしお思った。
19時過ぎに帰宅したら、長い留守番をがんばったまるが人間のベッドに吐いていた。