9時ー5時勤務で週に5日働く人生なんて無理と涙ながらに話す、アメリカの新卒Tik-Tokkerの動画がSNSで話題になりました。
ほんとにそのとおりだよと、50歳をすぎたわたしも思います。これまで黙って我慢してきただけの人は多いのではないでしょうか。SNSで自分の心情を吐露することにためらいのない世代が、今回たまたま動画で発信したというだけで。
情報量が桁違い
今や日常で触れる情報量が10数年前と比べても大きく増えました。
スマホで、タブレットやPCで1日に目にする情報の量をちょっとふりかえってみればわかるとおもいます。
PCやインターネットが普及する前のオフィスワークと現在のオフィスワークとでは、情報量と求められる対応スピードが桁違いです。
フルリモートで働くわたしの環境を書き出してみます。
- メールには12時間以内に返信。最長でも24時間以内には返信
- うっかり返信を寝かせると電話がかかってくる
- 書類作成や確認作業も数時間以内
- 渡される資料はPDFやウェブページ等のデジタルデータのみ
- Slackやメールの受信通知が頻繁に鳴り、即レスや即時の反応が求められる
- 顧客との共有フォルダに格納する複数種類のアプリによるデータの更新も、迅速対応が当たり前
ざっとこんな感じです。同僚や上司とのコミュニケーションもテキストでのやりとりが9割です。
昔なら顧客との通信手段は電話や書簡、ファックスでした。渡される資料は紙媒体に印刷されたものを広げて全体をじっくり眺めることができました。席で集中している様子をみたら「声をかけるのはあとにしておこう」と互いに配慮しあえたし、そもそも顧客との「共有フォルダ」なんて存在しませんでした。
仕事で扱う情報量には限りがあったし、ひとつ作業に時間と集中力をかけられる環境だったのですよね。
こういう環境が2010年代以降は大きく変わりました。
職場ではPCがひとりに1台支給されるのが当たり前になり、会社支給の携帯電話も珍しくなくなりました。
そして、新型コロナウィルスの世界的な流行をうけて、2020年以降はあらゆることがオンラインで完結できるようになりました。
もちろん便利な面もあります。だけど、その結果、ひとりの人間が1日の勤務時間内に接する情報量は爆発的に増えました。
視覚情報が多すぎると脳が疲れる
リモートワークでは通勤がないし肉体労働でもないから、身体は使っていません。
それでも、朝9時前から夕方5時半ごろまでディスプレイの前に座りっぱなしで、視覚情報に晒されているとどっと疲れます。脳が疲れる感じというか、終業後にはぼーっとしてしまって何も考えられない状態になることもしばしばです。倒れるように寝てしまう日も少なくありません。
目は脳の出先機関みたいなものなので、視覚情報はすべて脳で処理されます。
視覚からの情報が多ければ多いほど、そして光とともに文字や画像情報が入ってくるディスプレイに向かい続けている時間が長いほど、脳を酷使しているわけです。とうぜん、脳はくたくたに疲れてしまいます。
休むことを阻むもの
そんな働き方を続けていたら、疲労が溜まってしまいます。疲れれば集中力が落ちてミスが増えます。ミスが増えれば気持ちは落ち込むし職場での評価も下がり、いいことはひとつもありません。
それなのに、「疲れを溜めないために自分にあったペースで働きたい」「疲労回復目的で今日は休みます」という主張は、日本の職場では受け入れられません。呆れられたり軟弱と嘲られたりして、顰蹙をかうのが関の山です。
休職申請でわかったダブルスタンダード
わたしは昨年の夏、初めて休職しました。ワクチン後遺症の長引く体調不良と職場のストレスの合わせ技で、適応障害を起こしていたからです。
まとまった休みをとって立て直そう、また働くためにも今は休もう。そう考えてクリニックで診断書も書いてもらいました。わたしにしては思い切った決断でした。
ところが、最初に相談した直属の上司の冷淡な反応と、部門のボスの「診断書なんて患者が頼めばすぐ出してくれる。だから信憑性がない」ということばにがっくりきてしまいました。私が勤めているところはかなりホワイト企業だと実感しているのですが、それでも「休まれたら迷惑だ」「それっぽいこと言っているけど虚偽報告では?」という雰囲気が、個人にはあるんですよね。
なぜそこまで休むことを敵視するのでしょう?
日頃、仕事のパフォーマンスを重視しろ、自己管理をしろといっているのに、負の要因となる「心身の調子の回復不可能なまでの低下」を防ぐことにはあまりいい顔をしない。これではダブルスタンダードではないでしょうか。
休むのはずるいという意識
休むことを「ひとりだけ楽をすること」と思っているのではないかという気もします。
・自分がしている苦労をお前もしないのは許せない
・よんどころない事情があるわけでもないのに休むなんてズルい
・ズルするなんて許せない
こんな懲罰意識も根深いように思います。
それゆえ嫌味のひとつもいいたくなるのかもしれません。労働基準法からいっても休職の申し出はつきかえせないと「理解」はしていてもです。
そして、この懲罰意識は私自身の中にもあって、休みを後ろめたく感じたり自身を不甲斐ないと思ったりしていました。
これは必要な休養だとわかっているのに「大病しているわけではない。うつ病で起き上がれないわけでもない。それなのに休んでいいんだろうか」と極端な例をひきあいにだして、自分を責めたりもしました。
休むってなんだろう
そうはいっても休職してみたら1ヶ月間のんびり過ごしました…といいたいところですが、ことはそれほど単純ではありませんでした。
連日、仕事の夢をみるんです。
しかもミスをする夢をみて、ギョッとして目がさめる。起きた後は耳鳴りがひどくなったり落ち込んだりする。
仕事をしなくていい環境をつくったのに、頭の中は仕事のことばかり考えているのです。
これは今もです。三連休だろうが年末年始のお休みだろうが、気がつけば仕事のことを考えています。裁量権が少ないのに要求度の高い仕事をしているゆえに、常に緊張状態=交感神経優位にあるからだと思います。
多くの経営者はハイパフォーマーなことが多いですが、彼らは自分で働きやすい状況を選べる人なんですよ。自分で仕事のメリハリがつけられますからね。
「仕事の要求度・コントロール(JDC)モデル」というものが提唱されているのですが、仕事の要求度が高いのに裁量権や自由がないと、人はストレスを感じ、疲れやすくなるというもの。スマートフォンと一緒で、電波が弱いのにどんどんアプリを立ち上げて使っていたら、あっという間にバッテリーが減ってしまうじゃないですか。
ハイパフォーマーはいわば、「バリ3の状態で、シングルタスクで切り替えながらアプリを使える」人だということ。ほら、「踊る!さんま御殿」で(明石家)さんまさんはイキイキとしながら話題を振っているけど、座っている側は「いつ話題を振られても答えられるように」と必死じゃないですか。それと一緒ですよ(笑) つまり裁量権のない若手芸人は疲れやすい。会社も同じです。
「好きで長時間働くのがなぜ悪い!」という人に産業医から伝えたいこと
要するに、勤務状態にないのに心身はオフになっていない状態です。
考えることをやめたいのにオフにするスイッチがみつけられない。せっかく休職したのに、あまりリラックスできないままに1ヶ月が終わりました。
役割から離れることの大切さ
オンオフの切り替えができて、オフの状態になれることがほんとうの休養、休息です。
しかもオフの状態をゆったり味わえる心理状態になければ、休みもただ苦しいばかりになります。
「本当の休みをとる」とはどういうことなのか。
結論からいうと、私は、「自らの『身体のニーズ』を把握し、それに応えることで自分自身とのつながりを取り戻し、心身が安全・安心を感じられる状態にすること」だと考えています。
きちんと休むことが、「高度な技術」であることを多くの人は知らない
なぜオフの状態になれないのでしょう。
交感神経優位になってしまった自律神経の狂いももちろんですが、アイデンティティや自己価値観に原因があります。真っ当に働いていること、働いて収入を得ていること、仕事で評価されていることに自己の価値を見出していると、働いていない状態というのは価値が低い状態となってしまうからです。
「働いて生活している人」としての役割から離れることが、ほんとうに休むことの第一条件だと感じます。
後ろめたさを生むもの
帰宅したら着替えて化粧を落として楽な服に着替えるように、仕事で求められている役割から離れる。
別になんら悪いことではありませんよね。
それなのに後ろめたく感じるのは、日本語の「休む」の曖昧さにあるのかもしれません。
「日本語ではabsent(欠席・欠勤する)と、rest(休憩・休養する)は同じ「休む」という言葉を使」います。(引用元:「きちんと休むことが、「高度な技術」であることを多くの人は知らない」)
休息・休養(rest)が必要だから欠勤・欠席する(absent)のに、日本語ではどちらも同じ「休み」といい、目的と状態との区別が曖昧です。だけど本来は別ものです。(子育てや介護の経験がある方なら、欠勤🟰休めているわけではないとよくご存知でしょう)
そして、欠勤・欠席は会社や学校に届け出ないとなりません。届け出るだけなのに、実際には上司や同僚の許可を求めるような形式や空気があります。つまり誰かの許可をもらわねば休めない構造になっています。
その結果、「欠勤の許可」と「休養の許可」とが混同され、休養をとることへの後ろめたさがますますふくれあがってしまいます。これもあって休むことに自分が内心での許可を自身に対してだせないのではないか。そんなふうに感じられます。
率先して割り切る
同僚が有給をとる時、その人がふだんやっている業務のひとつをわたしが担当します。そのことに対して彼女は「すみません」「申し訳ない」といったことばを使いません。なぜなら、謝ることで「仕事を誰かに分担してもらうのはいけないこと」「休みは誰かに迷惑をかけるからよくない」「休んだ人は謝るべき」みたいな空気を作りたくないからだ、と。
そう言われて、確かにそうだと、清々しさとともに納得しました。
昭和の教育を受けた日本人女性としては、謝ることばを人間関係の潤滑油みたいに使いがちです。しかし、その場の潤滑油にはなるかもしれませんが、長い目でみたら悪影響でしかないケースもあります。謝らない=傲慢だ、みたいな短絡的なジャッジを生んでしまいますもんね。
同僚は、有給をとるときに謝ったり恐縮してみせたりせずに済む職場をつくるため、率先して割り切った姿勢を貫いています。
自分自身に対しても「休むのは悪いことではない」と落とし込みたいと願って、わたしもそれを見習い中です。