感情が枯れるとき

心身ともに調子を崩し、4月からふたたび休職しています。
簡単な作業依頼でもその依頼投稿を見るだけで呆然と固まってしまう。やらねばと考えるだけで指先から血の気がひき、セルフ霜焼けを引き起こす。手を動かせと自分を鼓舞しても、吐き気がするほど嫌でたまらない。なかなかとりかかれないことに自分でもイライラしたり落胆したり。些細なことで驚天動地の衝撃を受けてパニック気味になる。寝ても覚めても仕事が頭から離れない。そしてふと気がつけば縄をかけるところを探していました。
これはうつになる初期段階だと気がつき、再度休職したという次第です。

こんなになってしまった原因はなんなのか。慢性的な人手不足、デジタルデータのみゆえの煩雑な作業工程、複雑化する顧客ルール、他人とひとことも口をきかずテキストのやりとりだけで黙々と作業する環境…と要因を挙げればきりがありません。
が、本質はもうすこし根深いと感じます。他人とのコミュニケーションが激減したのももちろんです。それに加えて、感覚や感情を封殺して、従順に・速く・正確に・大量に働くことを優先したことがなによりいけなかった。

感受性が鈍くなる

2年ほど前から、感受性の鈍麻は始まっていました。これまでならワクワクしたり知的好奇心を刺激されたりしていたことに、感受性のセンサーが反応しなくなっていたのです。なにをみても心が弾まず、喜びやときめき、高揚感、充足感を得られない。なにかがおかしいと焦る気持ちはありました。

わたしにとっては「世界はたくさんの知らないことで満ちている=驚きと喜びの宝箱や〜🤩」です。未知のことを知る欲求や、自分がやりたいと思ったことにかける情熱は、食欲や睡眠欲と同じぐらい大切です。(あくまでわたしの場合です)

いつも食欲旺盛でご機嫌で活発な子どもが、「ごはんいらない。なにもしたくない。もう寝る」と言ったら、どこか悪いか心配事でもあるのではないかと気になりますよね。まさにそうなっていたのに、問題の本質に気がつかず手を打たなかった。
当時のコーチや友人に相談はしていました。しかし、「仕事にその感情は必要ですか?そういうのなくてもできますよね」と言われたり、「更年期の影響かも」「体調が回復しきっていないからでは」等と言われたりして、「そうなのか…そういうものなのかも…」と、ますます本質から遠ざかってしまいました。

そして、とうとう感性と感情が枯れました。
柔らかく繊細で、それでいて強くて爆発的な生命力を、自分の中に感じられなくなりました。
よろこびという水を与えなければ、心は枯れるのです。それを適応障害やうつ、円形脱毛症(これも自己免疫疾患のひとつ)や原因のはっきりしない厄介な症状という形で身体が教えているわけです。

仕事をなぜやりすぎるのか

なぜ感情を置き去りにして仕事をやりすぎてしまったのか。もちろん、生活費を稼ぐ必要があるからですが、ぎゅうぎゅうに作業を詰め込んで常に過積載の状態で走り続けたのはどうしてなのか。そんなことを考えていたところに、あるポッドキャストの動画を目にしました。
その動画で、ガボール・マテ博士がこのように語っていたのを観て、涙が止まらなくなりました。完全に情緒不安定なおばさんです。おばさんはとりいそぎ日本語訳をつけました(ところどころ意訳です)ので、ここで全文引用して紹介します。

もしも私がもう一度人生をやり直すことができるなら、今と同じ生き方はしないでしょう。

『くまのプーさん』をご存知ですか?そう、本の。何年も、その本の最後でわたしは涙ぐんでいました。クリストファー・ロビンは学校に行かなければならず、彼はおもちゃの動物である友だちに、もうそんなに一緒に遊べなくなることを伝えます。

私が医学校に通っていたときや内科医だったときに意識していなかったのは、自分の存在を世界に正当化するためにどれだけ駆り立てられていたかということです。あんなに一生懸命に働かなければよかったと今は思っています。 一生懸命働かなくてはと駆り立てられていると、ほんとうに大切なことを無視してしまうんです。 あなたは毎年夏にはポッドキャストから数週間離れて、子どもたちや奥さん、家族と一緒に楽しく過ごすんだと、昨夜、話してくれましたよね。それが「大切なこと」です。私はそんなことをしたことがなかった。いつも働き続けなければならないと感じていましたから。

『くまのプーさん』は次のように終わります。
「ふたりのいったさきがどこであろうと、またその途中にどんなことがおころうと、あの森の魔法の場所には、ひとりの少年とその子のクマが、いつもあそんでいることでしょう。(岩波書店版、石井桃子訳)」
このフレーズは何年も私を涙ぐませました。

人々は、自分の存在を承認するための無意識のニーズに駆られ、遊び心や喜びを犠牲にしています。
それはどこから来るのでしょうか?これもまた、幼少期のトラウマから来ます。

遊びはとても大切で、喜びもとても大切です。その意味で、私たちはいつでも「魔法の森」で遊び続けることができます。それが本質的なことだとわたしは思います。

https://www.facebook.com/reel/450096220804555
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If I were to choose to live my life over again, I wouldn’t live it in this way.
Do you know “Winnie the Pooh”? Yes, the book. The end of that book would bring tears to my eyes for years. Christopher Robin has to go to school, and he is telling his friends, the toy animals, that he won’t be able to play with them so much anymore.

And what I wasn’t aware of when I went to medical school and when I was a physician is how driven I was to justify my existence in the world. I wish I hadn’t worked so hard. When you’re driven to work too hard, you actually ignore what matters, and what matters is what you were telling me last night about how every summer you take a bunch of weeks away from your podcast, and you just spend time enjoying your kids, and your wife, and your family. I didn’t do that. I always felt I had to keep working.
And the book ends with statement, “And whatever they do, or wherever they go in the Enchanted Forest, a little boy and his bear will always be playing together.” And that phrase would bring tears to my eyes for years.

People sacrifice their playfulness, their joyfulness, being driven by unconscious needs to validate your existence. And where does that come from? Again, that comes from childhood trauma.
Play is so important and joy is so important. In that sense, we can always keep playing in the Enchanted Forest, and that’s just essential, I think.

Dr. Gabor Maté

https://www.facebook.com/reel/450096220804555

ほんとうに大切なことを無視してしまう

マテ博士のこの言葉に、頬をぴしりと打たれたような思いでした。

真面目に働いていなくては一人前とはいえない。いい職について職場で評価されていなくては人として価値がない。誰かの・なにかの役にたってこそだ。

そういう価値観がわたしにも根強くあって、遊び心や喜びをかえりみることなく雇われ人としてガツガツ働いてしまった。そのつけがやってきたのでしょう。仕事での評価や成果は悪いことではないけれど、それだけが自分の価値ではない。当たり前のことでも、心の奥底で否定していたと気がつきました。

それと、妙な忠誠心というか律儀さがわたしにはあって、これもよくなかったと思っています。
大量の作業やややこしい仕事がやってきても、「他に人がいないのだから仕方がない」と呑み込んで、極力定時内で作業を終えるようにがむしゃらに働いていました。そんな努力など、フルリモートでは他人に見えるわけもありません。「頼めばサクッとやってくれる」「残業時間も少ないからまだ余裕があるはずだ」と思われていた節があります。
追い詰められる前に「リソース不足です」「できません」と、わたしから伝えればよかった。たとえ「わたしだって大変なんだから」と管理者からきりかえされたとしても、です。
断る、抗議する、主張する、怒ることすら自分に禁じていたので、いいように使われてしまったわけです。

表面上はよい(とされている)ことでも、心には害悪でしかないこともあります。
自分の心を守れるのは自分だけです。わたしと同じ轍を踏まないでくださいね。