「ほしいものを買っていたらお金なんか貯まりません。ほんとうに生活に必要なものだけ買う。そうすればお金が貯まります」。
芸能人がこう言っている動画がYouTubeのおすすめに流れてきました。
こう言われて納得し反省する人もいるでしょう。が、わたしは「は?????」となるタイプです。
生活に必要なもの「だけ」買っていたら、心はパサパサに干からびます。
そんなことを続けていたら、腐った魚みたいな目になってしまうこと間違いなしです。
猫も観葉植物も作家ものの食器も「生活に必要」ではない。化粧品やマニキュア、ミシン、絵の具、日傘も「生活に必要」とは言い難い。これらがなくてもヒトは生きられます。
もちろん、目標とする金額を貯めるために節約が必要な時も人生にはあります。それに、身の丈にあわない贅沢を続けることはそもそも無理です。
だけど、心に潤いを与えてくれるものを「必要ないから」と切り捨てるばかりでは、心が貧しくなってしまいます。美しいもの、かわいいもの、おいしいもの、貴いもの、興味深いもの、素晴らしいもの、お世話をさせてくれる存在は、わたしの生活には必要です。それらが精神の宮殿を彩り、豊かにしてくれて、3次元世界を生きるのを支えてくれています。
およそアートや工芸は「生活に必要」とは言えません。しかし、職人の向上心による作品や科学者の探究心からくる研究が、文化や文明を豊かにしていることは言を俟ちません。そういうものを享受しない生活なんて、自ら進んで牢獄に入るようなものです。
クリエイティビティを発揮したり、他人のクリエイティビティを味わえる暮らしをしたい。いつもそう願っています。
食事だって創造性の発現だ
わたしにとってはごはんを作ること、調理や盛り付けも創造性を満たす行為です。
忙しくて冷凍食品や買ってきたお弁当が続くと、イライラしてきてしまいます。
しかし、食事は芸術だ!と祀りあげる気もありません。グランメゾンや料亭で働く料理人ならともかく、一般人にとっては食事とは日常の家事のひとつです。
自炊する人はみなそうだと思うのですが、3度の食事のたびに、時間と手間と冷蔵庫の中身と自分の余裕を天秤にかけて、なにを何品つくるか判断しています。「今日は時間がないからパスタソース使おう」とか「今日は朝の時間に余裕がある。よし、お米研いでししとうの煮浸しをつくっておこう」とかやっています。
面倒でストレスに感じる時もあります。が、作り始めると作業に集中できてだんだん楽しくなってくることもよくあります。
カッカした仕事モードが、調理を始めると段々に穏やかでおちついた家庭モードに切り替わるのもありがたい。気に入った器に普通のお惣菜をもりつけることですら、ささやかな愉しみです。
貧すれば鈍する
ボディワークのほうのクライアントさんから、最近の子どもの食事について聴く機会がありました。
「肉の調理が手間だからといって避ける親がいて、子どもにほとんど肉を食べさせない」
「普段の食事が、カップ麺やファストフードやコンビニのごはんだっていう子がいる」
「ペットボトル飲料が「普通」で、茶葉から淹れた緑茶や紅茶が臭くて飲めないという子もいる」
親が悪いと一概に言えません。
親は働いて毎日をのりきることだけで精一杯なんですよね。そんなに消耗するまで働いても生活に余裕がない。それが問題です。
長時間労働で低賃金、もしくは税金等をごっそりひかれて手取り額が低いものだから、残業や副業をせざるを得ない。これは単なる個人の努力や資質でなんとかなることではなく、社会の構造、それを作り出している政治のあり方から変える必要があります。自分で税率決めてるわけでもなければ、好んで低賃金を選んでいるわけでもないのですから。
食事は庶民のささやかな愉しみであり、かつ、健康な生活のための重要な営みです。それすらなおざりにしなくてはならないなんて、どんな貧困国だと悲しくなります。貧すれば鈍するというように、貧しさはあらゆる感性を鈍らせてしまいます。
川村美術館の閉館のニュースに接し、日本の貧しさがここまで落ちたかと暗澹たる気持ちになる夏の終わりです。