豊かさをみる

私は以前、気に入ったモノを次々買ってはモノを増やすタイプの人間でした。
かわいい雑貨、素敵な食器、デザインのかっこいい鞄等々…それを買うときはとても心が弾み、うきうきと嬉しいのですが、しばらく経つと無関心になってしまう。むしろアラが目についてくる。

「確かにかわいいけどなんの役にも立たない」
「食洗機にも入れられないし使い勝手が悪い」
「デザインはいいんだけど機能的じゃなかった」



そしてまた「これではないなにか」を求める。
そうやってモノを増やしてしまう生活をしていました。

”これじゃダメ”・”足りない”という飢餓感にも似た気持ちが常に薄らと心のどこかにとぐろを巻いていました。

モノに限らず、性格や経験・知識・技能・資格等々に関しても「私にはアレが足りない」「コレもない」と、他人と比べては不足感にさいなまれていました。

この数日、料理の話を人とすることが多いのですが、ある知人がこう言いました。

「いくらいい野菜とかお肉とかあっても、料理する能力がなかったらおいしく食べられない」。

料理をする能力とは、調理道具の使い方に始まり素材の切り方、調理法、味つけ、盛りつけ、他の食材との組み合わせ等々を考えて料理する能力全般です。感覚、根気、創意工夫も含んでいます。

料理力がある人は、たとえ冷蔵庫に3つの食材しかなくても2品ぐらいひねりだせちゃうもんだよね。料理する力とか掃除する力ってすなわち生きる力だよね。

そう話していてハッと気がつきました。

多くの人がやれることだからといってその能力を過小評価する必要はどこにもない

相対評価で自分を採点することほど、無意味なことはないんです。

既に持っているセンスや能力は誰にも奪えません。
食材から食事を作り出す能力が私に「ある」。これは絶対評価でみるもので、もっと上手にできる人がいるから…と相対評価でみるようなものではありません。

できること、持っているもの、得意なことなど、自分のリソースを正当に評価してみると、不足感にさいなまれることも減ります。あ、今のままでできることってたくさんあるじゃないの、とフッと楽になる瞬間が増えるんです。

「足るを知る」とはちがいます。あのストイックな言葉は一種の呪いだなと思います。
”今あるもんで我慢しろ” ”身分相応ってことを考えろ”、みたいな説教臭さを感じてしまうのです。

「足るを知る」よりも「豊かさをみる」の方が、今の私にはしっくりきます。